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大震災から6年~東日印刷の3.11~

大震災から6年~東日印刷の3.11~

多くの人々にとって大震災は過去のものとなろうとしているのでしょうか。

東日印刷にとっての3月11日は、全社員が結束した日。震災という「非日常」に不安を感じる多くの人々に、新聞という「日常」を届ける使命感に燃えた日です。

日本中が大混乱に陥ったあの日、東日印刷では何が起きていたのか。私たちがどんな思いで新聞を発行したのか。当時の資料をもとに「東日印刷の3.11」を振り返ってみたいと思います。

津波

(写真:毎日新聞社より)

6年前の3月11日、死者・行方不明者1万8000人という未曾有の被害をもたらした「東日本大震災」が起きた。

マグニチュード9の巨大地震で激しい揺れ、そして最大40メートルの大津波が日本を襲った。追い討ちをかけるように東京電力の福島第一原子力発電所の被災による放射能被害。新聞印刷業界でも印刷工場をはじめ、用紙やインキなどの製造工場が大打撃を被った。

 

地震の発生は午後2時46分。夕刊の印刷が一段落した時間帯だ。東日印刷が入るSTビルも大きな振幅の揺れが数分間続いた。屋上の地震計は「震度6」を指した。(気象庁発表は震度5強)

現場では、渉外紙を印刷していた輪転機を直ちに停止。作業員は屋外へと避難した。

各部局で建物や施設の被害状況を把握し、営業局では得意先や取引先との連絡に、総がかりで取り組んだ。

工場の被害は、電気室のケーブルラックが崩落。動力盤高圧ヒューズの溶断、製版室や輪転場の壁のひび、輪転場マシンベッドの床の一部破損―などが確認された。

 

工場の被害は比較的軽微だったが、計画停電に伴い、停電時間帯の毎日新聞グループの他工場の代替印刷が加わり、逼迫する資材の調達や臨時宿泊者確保などの対応に追われることとなった。

 

「伝える」という使命感に。印刷部

午後3時が過ぎ、現場では「家族の安否」「出勤者の被災」「連絡の不通」、さまざまな想いが錯綜する中、JRなどの交通機関が終日運転見合わせを発表。これにより泊まり明け勤務者の退社と夜勤者の出社が困難となった。しかし、交通がマヒした中でも夜勤者の約半数が出社した。出勤途中で被災し、その場所から会社まで20キロを徒歩で出社した者もいた。

また、夜間作業の見通しが立たなかったため、明け勤務者の一部が連続で泊まる「特別勤務体制」を取った。

各紙の朝刊は、交通マヒや渋滞に備え、印刷時間の繰上げや建てページ、カラー面の変更などが相次ぎ、対応に追われた。家族とも連絡が取れない中、「メディアの一翼を担っている」という使命感が私たちを動かした。度重なる余震に見舞われながらも、無事印刷を終えることができた。

 

「かたちにする」ため公休出勤。制作部

制作の要であるCPU室(サーバールーム)は異常がなかった。ほっと胸をなでおろすも、送受信関係の東北方面への主回線が不通に。しかし、副回線が正常だったため、紙面伝送に影響はなかった。そして、翌日の夕刊作業者を確保するために公休者に出勤を要請した。

 

「正しい情報」を各部局に。工程管理部

午後4時ごろからお客様から電話が入り始めた。朝刊各紙の建ページや部数変更、降版時間の繰り上げ要望に対応。各部局への伝達・調整作業にあたる。午後5時20分には毎日新聞号外「東北で巨大地震」を印刷。その後も各紙からの電話がとどまることもなく、調整作業が朝まで続いた。

 

「届ける」ために夜勤者全員出社。発送部

発送部の夜勤者は全員が出社することができた。交通マヒにより徒歩で3時間かけて出社した者もいた。そして帰宅不能者、緊急対応による作業のため、臨時宿泊で勤務した。

各紙の降版時間の繰り上がり、建ページの変更に対応。インサーター作業(宛先を入れる作業)が手作業になった日刊紙もあった。

渋滞で輸送トラックの到着が大幅に遅れるトラブルに加え、印刷順の変更や発送場での積み置き作業が発生した。最終社発は翌日の午前7時40分だった。

 

臨時宿泊者やビル滞在者に対応。総務部

地震発生直後、ビル内のスポーツニッポン、東京スポーツ両社を巡回。テレビや食器などが落下し壊れている場所はあったが、けが人はいなかった。その後は余震のたびに避難者の安全を確認。交通マヒの情報から緊急会議を設け、帰宅困難者の対応のため、レンタル業者のもとに寝具の調達へ。しかし、受け取りに向かった総務部員が渋滞で動けず実現不可能になった。対応策として宿直室の毛布を集め、顧客などのビル利用者に貸し出した。

震災総務

計画停電により工程がマヒ。

地震発生の当日は何とか乗り切った。しかし、災害は終わってはいなかった。

地震後には原発被害などにより、関東地方で電力の供給が追いつかない事態が発生した。このため東京電力が「計画停電」を行った。電力を大量に使用する新聞印刷業は大きな打撃を被った。毎日新聞グループの工場では川崎、川口、海老名、福島で、停電中の印刷が不可能となった。

江東区は計画停電の対象外だったため、東日印刷の越中島本社工場の代替印刷の依頼が殺到した。これに対応する人員が必要なため、現場では有休なしで作業にあたった。

また、総務局は臨時宿泊者への対応や、資材の調達、本社施設の破損箇所の修復に追われた。

計画停電に伴い、全社的に照明を間引き、空調停止、エレベーターの一部停止など節電も行った。

節電のため電気を減らす

 

追い討ちをかける資材不足

地震から1週間後、新聞インキは原料が逼迫し、生産が追いつかなくなるという緊急事態に陥った。これによって、業界全体で建てページの削減やインキの濃度を下げて印刷することとなった。原材料の輸入を政府に要請するほどの事態だった。

梱包用フィルムも仕入先である1社は被災。復旧のめどが立たない事態に陥ったため急遽別の会社に依頼した。

また、電圧不足による機械トラブルにも悩まされた。

これらのトラブルは4月以降、徐々に回復していくこととなった。

 

以上が東日印刷の「3.11」です。

 

あの日、被災地ではテレビや電話、インターネットなどのインフラは全て寸断されました。

そうした中、いつもと変わらすに届けられた新聞には揺るがない価値があったと私たちは信じています。そして、その価値は、震災という「非日常」に傷ついた多くの人々に、ささやかな安堵を与えたと思います。

私たち東日印刷はメディアの一翼を担い、情報を届けるという使命を持っています。そして、その使命に社員一人一人は誇りを持っています。

今後も、東日印刷は「情報を届ける」ことに対して熱い情熱とこだわりをもって向き合っていきます。

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